歴史

河内源氏の由来

寛仁4年(1020)多田満仲公の四男、源頼信公は、壺井の香呂峰に館を営み、同年9月10日より居住し、河内源氏の祖となられました。その後、平忠常の乱を平定し、河内守に任ぜられました。その翌年、頼信公の長子・源頼義公が河内源氏の二代目となられます。

長暦2年(1038)7月14日、頼義公の長子・八幡太郎義家公が当地に誕生、続いて次男・加茂次郎義綱公、三男・新羅三郎義光公等が誕生されました。これらの事により、当地は河内源氏の発祥の地となりました。また頼信公は、長久4年(1043)9月5日、通法寺を建立されています。

永承3年(1048)9月1日、74歳を以て入滅。通法寺の巽の方向の山上に葬られました。

   源 頼信

 寛仁4年(1020)壺井に館を構えた頼信公は、関東で起こった平忠常の乱を平定することにより、武将としての名を高めました。後、河内守に任ぜられた頼信公は、誉田山稜(応神天皇陵)に参拝、告文を奉っています。この中で、自分の祖先を応神天皇とし、先の忠常の乱において、一平兵も動かさずして平定することができたのも八幡大菩薩のお陰と、感謝の言葉を述べられています。

 この平忠常の乱の平定には、はじめ相模守であった平直方が追討使を命ぜられましたが、成功せず、続いて頼信公に勅命が下ったのです。この戦に従軍した頼信公の嫡子・頼義公の姿を見た直方は、自分の娘を嫁がせ、生まれたのが義家公です。直方は娘を嫁がせるにあたり相模国鎌倉を持参金とします。以後、鎌倉は、河内源氏相伝の地となったのです。

 

   源 頼義

 頼信の嫡男として河内国石川郡壷井荘(現・大阪府羽曳野市壺井)の香炉峰の館に生まれ[要出典]、弓の達人として若い頃から武勇の誉れ高く、今昔物語集などにその武勇譚が記載される。父・頼信もその武勇を高く評価したといわれ、関白・藤原頼通に対して長男・頼義を武者として、次男・頼清を蔵人(官吏)としてそれぞれ推挙したという

 平忠常の乱から20年、奥州において「前九年の役」、「奥州合戦」あるいは「12年合戦」などと呼ばれる戦乱が起こりました。安倍頼良・貞任・宗任父子の反乱です。この前九年の役を鎮守府将軍・陸奥守として平定したのが頼義公です。

 頼義公がこの前九年の役を平定することにより、河内源氏の勢力は奥州にまで伸び、関東武士たちに対する支配力は、一層強固なものとなったのです。この頼義公の嫡子が「天下第一武勇之士」とか「武士の長者」(中右記)と評された八幡太郎源義家公です。

   源 義家

 義家公が、武士の棟梁としての地位を確固たるものにしたのは、後三年の役であります。後三年の役は、前九年の役の勝者清原氏一族の内部争いに端を発したものです。義家公が鎮守府将軍・陸奥守に任じられた兵を動かす結果となりました。 

 しかし、この戦は、清原氏が国家権力に反抗して起こったものではなく、清原氏一族内での内訌であったため、朝廷は、追討の官符を与えず、私的戦闘と見なされたのです。ここには、河内源氏の政界進出を抑えようとする白河天皇を中心とする朝廷の姿が見られます。

 こうした点で、後三年の役は、政治的には義家公の大きな失敗であったと言わざるを得ませんが、義家公と関東武士団との関係においては、一段と大きな発展が見られ、武士の棟梁としての地位を得たのです。また、名将として神格化され、その庇護のもと献身的な奉公をする武士団との間の私的主従関係が強化されたのです。

 その結果、義家公の勇猛ぶり・知将ぶりを賞賛し、思いやる恩情深い武将であることを強調した説話が数多く生まれました。例えば、『奥州後三年記』には、義家公が軍士を労わった話、剛臆の座を定めた話、斜雁の列の乱れを見て伏兵を知る話、金沢柵の陥落を予知する話などがあり、また、白河上皇が「物の怪」に悩まされた折、黒塗りの弓矢一張をすすめ、それを上皇が枕上に立てられたところその後は「物の怪」に襲われなかった話、堀河上皇がご病気の折、義家公が甲冑をつけ弓箭を帯して参内し、弓の弦を三度鳴らしたら、天皇のご病気は平癒されたという話があり、これらは義家公の超人的霊力を示すものであります。

 また、義家公が武勇にすぐれただけでなく、学問にも通じていたことを示すものとしては、『古今著聞集』に大江匡房に兵法を学んだ話、衣川にて安倍貞任との連歌の話などがあり、『千載和歌集』には次の和歌が載せられています。

清和源氏略系図

   壺井水

 前九年の役の際の天喜5年(1057)6月7日、源頼義公・義家公父子が賊と戦う最中、大旱魃にて飲料水が少なくなり、まさに敗北するという状況に追い込まれました。大将軍頼義公は、下馬脱甲合掌し、干天に祈りを捧げ「諸軍渇きに堪えかね、まさに敗せんとす。伏して願わくば軍中に水を得さしめ給え。帰命頂礼八幡大菩薩南無通法救世大士、擁護の手垂れ給え。」と申され、しばらく礼拝された後、自ら弓矢をもって岸壁を穿ったところ、そこより清水が湧き出し渇きはたちどころに除かれました。これにより、諸軍は大いに勢いを得、遂に賊を誅伏することが出来ました。

凱旋の際、この清水を壺に入れて持ち帰り、城域内に井戸を掘り底に壺を埋めて壺井水と称しました。以後、香呂峰の地名は壺井と改められ、この井戸は現在に至るまで保存されています。

尚、その湧水は現在、弓弭(ゆはず)の泉として北上川の源流となっています。